自然保護運動に思うこと
私達が普段から使っている言葉としての「自然」とは何だろうか。それは、「海」であったり「山」であったり「里山」であったりと千差万別である。
しかし、そういった土地が本当に「自然」なのかといえば、個人の考え方にも寄るがそうではない場合がほとんどである。ともすれば、公園やガーデニングを自然と捉える人もいるだろう。
護岸整備された海は既に自然とは言えないし、人工的に植林された山ももはや自然ではない。本来、「里山」も人工的に切り開かれた土地なのでそれもまた自然とは言えない。
そこで「自然を大切にしよう」とか「自然を保護しなければならない」とかいう自然保護運動は正常に機能しているのかという疑問が生じる。
自然保護運動として最も知られているのは「ホタルの復活」や「里山の復活」である。他にも「綺麗な蝶の保護」や「クロメダカの保護」などその対象となるものは様々だ。
それら自然保護運動に反対している訳ではないが、果たしてそれが真の自然保護なのだろうかという私なりの疑問があるのです。
何故「ホタル」なのか。何故「綺麗な蝶」なのか。では、目立たなくてあまり知られていない生き物はどうなるのだろうか。実は、その生き物は生態系にとって非常に重要な位置を占めているとしたらどうなのかということである。
結局、この「自然保護運動」とやらは、実は個人的な昔ながらの景観の懐かしさというか、原風景というものを取り戻したいという欲望から来ているものだとしたらどうだろうか。
個人的な押しつけ以外の何物でもないのではなかろうか。
そもそも「真の自然」というのは、人の手が全く入っていない土地のことであり自然保護とは、それを継続するものでなければならないはずである。わざわざお金と人手を掛けて行うものではないはずだ。
「里山」の復活などということになれば、どれだけの金と人手が必要となるかを考えれば一目瞭然である。
「里山」は日本の原風景として最近になってもてはやされ始めたようだが、それは何故なのか。
その時代に育った人たちが懐かしさを憶え、そんな風景をまた見てみたいという個人的な欲望から来たものとしか考えられない。
「里山」は、確かにその時代には必要不可欠な土地だったかも知れない。火をくべるための薪を取ったり、椎茸栽培に使う土地だったりと色々な面で生活に役に立つ用途が多様に有ったはずだ。
しかし、今の時代にその様な生活をしようと思う人が居るかといえば疑問であるし、その様な生活をするとなれば、かなり大変なことになるはずだ。
燃料は石油に頼り、椎茸だって工場で大量生産される時代である。時代は常に変化しているのだ。
そもそも自然との共生は人間にとっては無理なのであるから、まだ一握りに残っている手付かずの自然をもう壊すのを止め、立ち入らないことでしか「真の自然保護」は無理だといえる。
もう一度「自然保護運動」とやらを見直してみる必要がありそうだ。
■参考文献:祥伝社新書:「自然との共生」というウソ 著者:高橋敬一 発行所:祥伝社
| 固定リンク
「環境」カテゴリの記事
- ハイブリッドカーの落とし穴(2009.11.11)
- 自然保護運動に思うこと(2009.05.19)
- 照明について考える(2009.02.19)
- ゴーストフィッシング(2008.09.06)
- ゲリラ豪雨(2008.08.30)












コメント