インドの第一印象

5月の下旬から、仕事の関係でインドへ渡航する機会を得ている今日この頃である。
初めてのインドは、衝撃的だった。
まず驚いたのは・・・・

【車の運転だ!】
日本のような整然とした交通ルールは無いといっても良い。
とにかくクラクションを鳴らす。「危ない」ときに鳴らすものではなく「俺はここにいる」的な合図として使われている。
サイドミラーがあるにもかかわらず、折りたたんでいたり、酷いのになると無いのである。
とにかく我先に的運転だ。譲り合うことはしないし、常に前後左右車間をギリギリまで寄せるような運転である。
一応、道路には車線が引かれているが殆ど無視。酷いのになると逆走してくる奴だって居るくらいだ。
道路には、車だけではなくバイク、スピードの出ないオート三輪タクシー、耕耘機など様々な乗り物が入り交じり、直ぐに渋滞になる。ともすれば、牛や水牛、羊にヤギ、馬、ラクダ、豚などの動物たちも登場する。
特に牛は数が多く、そこら中に居て、道路の中央分離帯で口をモグモグさせている。インドでは牛は非常に大切に扱われており、とにかく堂々としているのである。
とにかく、日本人がインドで車の運転をしようと試みたとしても無理である。だから、インド人運転手を必ず雇わなくてはならない状況に陥る。

【開発の勢いも凄い!】
新しい建物がどんどん建設されている。
ただ、開発区域からちょっと外れると貧しい人達が住むスラムが有ったりする。実際に宿泊したホテルの裏は、表通りの賑やかさは全く無く、地元の人達が住む掘っ立て小屋のような建物が見えた。
建物だけをどんどん率先して建設している。
それに比べ、下水道などのインフラ整備が殆ど出来ていない。ちょっと雨が降れば排水が無いため、道路の両側の人が通る道は水浸しになる。貯まった水はなかなか引かないので不衛生である。
蚊の発生源だ。

【言葉は?】
インド人同士であればヒンディー語を使っているようだが、我々外人と話すときは英語を使う。
ただ、完璧な英語ではない。
かなりなまった英語なので、しっかりした英語を学んだ人にとっては聞き取りにくいようだ。逆に私のような英語音痴が単語を並べて話した方が通じたりする。
どんななまりかというと、例えば「R」の使い方がおかしい。
「30」を英語で発音すると「サーティー」であるが、むこうの人は「サルティー」という。「1000」は「ワン・サウザンド」であるが「ワン・タウザンド」である。
要するにローマ字読みに近い。
教育をまともに受けていない人達は、英語は話せないし理解もできないようだ。

【食は?】
やはりインド人はカレーである。
種類的には非常に多いようであるが、殆どカレーで過ごしているようだ。日本で食べる様なカレーではなく、ビチャビチャしている。そしてスパイシーである。
屋台で本場のカレーを食べてみたいと思っていたが、現地の日本人に聞くと自殺行為だそうだ。日本ではお目にかかれないような菌が我々のお腹に悪さをするらしい。
なので、渡航の際、我々日本人はわざわざ日本食レストランで食事をする。ここでも、安心とは言えない。
特に「生野菜」や「水道水」などは避けた方が良い。とにかく水に悪さをする菌が入っていることがあるらしく、熱を通した物でなければ安心できないとのことだ。なので「氷」も怪しいのである。
日本食レストランとは言え、食材は殆ど冷凍物なので美味しいとは言えない。とにかく、長期滞在していると「美味しいご飯」や「麺類」が食べたくなるのが日本人のようだ。だから、日本人は美味しい日本食に飢えている。
水であるが、日本では軟水だがインドの水は考えられないほどの硬水である。日本人のお腹には合わない。下痢までは行かないが、緩くなるのである。常にお腹がもたれる感じが抜けない。これも全て慣れであろうが、慣れるまでにはかなりの時間を要すると思われる。

とにかくインドは私(日本人)にとっては衝撃的な地である・・・。
続く・・・?

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東北地方太平洋沖地震を振り返る

ちょっと落ち着いたので表記地震発生時からの私の行動を振り返ってみる。
都内会社のビル10階にて、3月11日13時30分からの会議へ出席していた。会議も終わりに近づき、閉会するちょっと前のことである。時間は調べたところによると午後2時46分である。
下から細かい振動が感じられた。
その後、直ぐに横揺れが始まる。次第に揺れは大きくなり、キャスターが付いた長机が左右に大きく揺れ始め、立っていられないくらいの揺れになる。いつもの地震だったら直ぐに治まるはずだが、かなり長く大きな揺れが続く。建物自体の揺れの限界とも思えるほどで、崩壊に至るのではないかと心配になるほどだった。
この時点で、恐怖心が次第に強くなり、死を覚悟するほどの心理が働いた。何も出来ない、動くことも出来ない自分が居た。
長い間続いた揺れがやっと治まり、自分の席がある9階に降りてみると、警報が鳴り響いていた。
本棚等が崩れていなかったのは唯一の救いだった。社員は全員無事である。
地震の情報を調べて見ると宮城県沖ということが分かった。そうこうしているうちに、また余震が発生した。先ほどの揺れとはいかないまでも、かなりの揺れである。この時点で、ビルのオーナーから屋外への待避が告げられた。
警報は鳴り続いていた。
エレベーターが止まっていたので、非常用階段を使って屋外へ出た。周辺のビジネスマンも屋外へ出ており、歩道は人で溢れていた。
しばらく経って、屋外待避が解除されたので職場へ戻る。窓から外を見ると、お台場周辺から真っ黒な煙が立ち上っていた。テレビで情報を見ていると、市原の製油所の火災が報道されている。
その方向を見てみると大きな爆発の瞬間だった。キノコ状の炎が見え、その後真っ黒な煙が上空へモクモクと立ち上っていた。
大変なことになっている。
時間の経過と共に、歩いて帰宅しようとしている人達が歩道に溢れだした。渋滞も発生している。会社からも帰宅できる人は帰っても良いという指示が出た。私は帰ることが出来なかったので、会社で待機することにした。

3月12日6時30分ころに、営業に出ていた会社所有の営業車が職場に帰ってきたので、自宅が同じ方向の社員5人で車で帰宅することにした。
しかし、渋滞は治まっておらず、なかなか進まない。電車がやっと動き出したとの情報を得たので、沿線の駅近くで降ろしてももらった。35km/hの速度規制を行っていたが、何とか動き始めたようだ。
長い時間を掛け、やっと自宅にたどり着いたのは午前10時だった。
相変わらず余震は続いていた。
死を意識した初めての経験だった。

まだ、地震の影響は続いている。
被災した人達のことを思うとやりきれない思いだ。亡くなられた方々へ、ご冥福をお祈りする。
私たちがこれから何が出来るのか。1人1人がよく考えて行動しよう。
自分が今生きている現状と、普段何気なくとっている行動に想像力を働かせることが大切な時期である。

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カーナビの仕組み

最近の車には、カーナビゲーションシステムが標準装備されているものもあり、もはやオプションとは言い切れないような状況になりつつある。
私自身、去年買い換えた車に最高グレードとは行かないがオプションで取り付けることにした。初のカーナビである。
最初は使い方も分からず戸惑いはしたものの、最近ではバリバリ使うようになった。始めて行く道案内やリアルタイムの渋滞情報、到着予想時刻、更には事故や車線規制などの情報も届くので非常に助かるのだ。今まで必要性を感じていなかったのだが、使えば使うほどこれほど利便性に優れたものだとは思いも寄らなかった。
さて、ナビゲーションシステムとはどういう物なのかを調べてみることに・・・。
カー・ナビゲーション・システムの英訳は「Satellite navigation system」であるが、そもそもはGPS衛星からの信号を貰って現在位置を測位している。
「GPS」とはグローバル・ポジショニング・システム「 Global Positioning System」であり、「全地球測位システム」と言い、地球上の現在位置を調べるための衛星測位システムのことである。元来は、アメリカの軍事用衛星システムだったのである。
アメリカが軍事用に打ち上げた約30個のGPS衛星のうち、上空にある数個の衛星からの信号をGPS受信機で受け取り、現在位置を知るシステムである。実際には、4つのGPS衛星からの電波を受信し、GPS受信機内部の時計の校正を行ないつつ測位を行なうようになっているようだ。
ナビの軌道を見る限り、長さにすると1mの誤差も無いほどの精度を誇っているから驚きだ。正に、宇宙規模のテクノロジーの結果がカーナビなのである。
さて、カーナビにはGPS機能だけではなく、その他に「VICS」という渋滞や交通規制などの道路交通情報をリアルタイムに受信できるシステムも付属されている。
VICSとは「Vehicle Infoemation and Communication System」の略である。
それらの情報は「財団法人道路交通情報通信システムセンター」から提供されるシステムで、具体的には渋滞情報、交通規制情報、所要時間、交通傷害情報、駐車場情報が上げられ、それが文字や図形で表示されるシステムである。
このシステムがGPSシステムと連動されることで、渋滞を避けたルート選択、運転時間の短縮をはかることが出来るのである。平成8年4月に東京圏で情報提供がスタートされ、今では全国に及んでいる。
その情報の源はというと、主要道路に設置されている「光(近赤外線)ビーコン」や「電波(準マイクロ波)ビーコン」更に「FM(NHK等の各地のFM放送局)多重放送」のメディアである。
これらのメディアの役割と機能は次の通りだ。

■光ビーコン:一般道の主要幹線道路に設置され、概ね自車の前方30km以内と後方1km以内の道路交通情報を提供
■電波ビーコン:主に高速道路の設置され、概ね自車の前方200km以内の道路交通情報を提供
■FM多重放送:各地のNHK・FM放送局から当該都道府県とその周辺の道路交通情報を提供。情報は5分間隔で更新される。

以上、カーナビの仕組みを説明してきたが、色々な最先端テクノロジーの塊である。
しかし、初めて行く道はともかく、やはり自分が通い慣れた道での経験に勝るものは無いのだ。あまり頼りにし過ぎると道の憶えも悪くなるし、大まかな感覚が薄れるような気がする。
使うとき、使わないとき、それぞれ自分で判断することを忘れないようにしたい。

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文章に残す意味

文章を書くのはあまり好きではなかった。特に小学校の授業の中での作文については苦痛に感じていたものである。
先生が「○○について何でも良いから書きなさい」というが、いきなり○○について書けと言われても良い文章なんか書ける訳がないのである。仕方がないので、その課題の場面を思い出しながら淡々と自分が行動した場面を時系列的に文字にして書き連ねるしかなくなってしまう。だから、ただ単なる日記風の文章になってしまうのだ。自分でもそんな作文は書きたくないのに・・・・。
その課題についての鮮明な実体験が無ければ大人でも書けないはずである。文章を書くに当たっては、やはり個人としての鮮明な実体験と感動や衝撃、興奮がなければ良いものは書けない。
中学校の時にとても面白い文章を書いた同級生がクラスで発表した。決して綺麗な文章ではないが、それは一連の物語として他の生徒でもその場面か頭の中で映像のごとく想像できるくらいの素晴らしい文章だった。
その内容は簡単に書くとこうである。
友達二人と自転車で1日掛けた長距離旅行の話である。最初は淡々と自転車を漕ぐ。その途中に「うんこ」がしたくなったらしいのだ・・・・。その行程は、公衆便所も無い山道である・・・・。長い時間我慢するがどうしようもなくなる・・・・。仕方が無く「野ぐそ」をするも紙が無い・・・・。
教室中は笑いの渦である。
この文章はかなり長いものであったが、はじめから最後までクラス中の生徒達はその作文を食い入るように聞いていたものである。決して勉強の得意な生徒ではなかったが、自分が心から困り果て大変だった出来事を見事に表現できていた。これこそ素晴らしい文章である。
文章の定石としては「起承転結」が一般的な構成要素である。この定石を利用すれば、どんな人でもかなりまともな文章になるはずである。
の内容を分析するとこうである。

【「起承転結」の構成要素】
■起 : 自分が書きたい事項に対して現状がどの様な状態かを紹介する部分
■承 : 「起」での現状に対して具体例を含めて説明的に淡々と進める部分    
■転 : 文章の盛り上がりを最大限に転回する部分であり、自分の感じていることや訴えたいことについてインパクトのある文章にする。
■結 : 「転」に対して自分としての結論を述べる部分

この構成を旨く利用することにより無難な文章が書けるずである。
見てお分かりの通り、この中で軸となるのは「起承転結」の「転」である。自分が日々の生活の中で感動したこと、興味を持ったこと、興奮した場面などが「転」の部分になる。
従って読む人にもよるが「転」の部分に何を持ってくるかによって文章のインパクトはかなり違ったものになるはずだ。興味や感動する対象は人それぞれ違うものだからである。
それに伴い、人に見せる文章と自己満足の文章に分かれるだろう。私がこのブログに書いている文章は殆どが自己満足の文章である。人によっては、大勢の人に見られることを悟りながら文章を書かなければならないこともあるかも知れない。
特にネットに掲載する文章は、それらを知った上で慎重に選り分けて公開しないとかなり危険なものにもなり得る。日記風に書いたと思っても、それは裏を返せば自分のプライベートを曝け出すことに繋がる場合がある。それが元で、匿名で心無い人達に攻撃されるようなことにだってなりかねないから困ったものである。
作文が嫌いだった私だが、最近は文章を書くことに対して苦痛は全く無い。自分が体験した感動や衝撃を文章に残しておきたいと思っているくらいだ。だから、それらを体験したら直ぐに書くようにしている。時間の経過と共にそれらの体験は少なからず薄れていくからだ。
その典型はホームページに掲載している釣行日記である。その場面と心の躍動を文章に残したいと思っている。
かなり前の釣行日記を読み返す毎に、その場面と心の躍動は蘇ってくるものだ。
文章は誰にでも書けるし、その過去を振り返ることにより、現在に繋がるヒントさえ与えてくれるはずだ。
文章は自分の考えを整理する場でもあり、人々に訴える力も持っている。言葉とは違う素晴らしい伝達手段である。ある意味自分を良い方向に導く「武器」となる場合もある。
文章を書き残すことで色々な面で活かされるはずだ。

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鉛筆の威力

私の記憶が正しければ、今や筆記用具としての王道を行くシャープペンシルなるものが発売されたのは小学生低学年の時である。カチカチ押すと細い芯が筆先から出てくるのにはかなり感動したものである。
それまではもっぱら筆記用具といえば鉛筆だった。使っている内に芯が減り続け、書いている文字にだんだん違和感を覚えたものである。
教室には共用で使える電動の鉛筆削りが置かれていた。その削りカスが満タンになったら日直が捨てていた。
その昔「最近は鉛筆をカッターで削れない子供が増えた」というような社会的にはあまり良くない風評として騒がれたことがあったが、そのようなことを今時語る人は居ないようだ。
私も実際にカッターを使って鉛筆の削り方を両親に教わったことがある。御陰で上手になった。勿論今でもちゃんと削ることが出来る。だからどうした?と言われればそれまでであるが、自分の手を使って削ることで器用になったこと自体に意味があると思っている。
たかが鉛筆といえども、絵を描くのには最高の画材だと思っている。線の細さの強弱、濃淡の表現などはこれ一本で自由自在である。逆に言えば、これさえ出来れば立派な絵を描くことが出来るのだ。
シャープペンシルだとそうはいかない。色々な太さや濃さの芯が売っているのはその証拠である。
絵事態に吹き込む独特な柔らかさの表現は鉛筆の使い方から生まれる。
その鉛筆の威力が世界的に人々の感動を呼び起こした。
第81回アカデミー賞の短編アニメ映画賞にノミネートされていた日本のアニメ映画「つみきのいえ」(加藤久仁生監督)が受賞した。それも無声アニメである。CGが主流を占める中、鉛筆で画かれたアニメで、それも無声というところに意味があるように感じる。
鉛筆によって、人の動きは勿論のこと、心の内までもを表現できるということだ。これは凄いことだと思う。
ニュース等で、1分少々ではあるが、テレビで流されているのを見たことがある。そんな短い時間の中でも何とも言えない暖かさを感じたのは私だけではないはずだ。是非、通しで見てみたいものである。
絵を画くのが好きな私も、鉛筆は幼少時代から使っていたし、学生のときにも絵画の授業で使っていた。
絵の基本は、今でもやはり鉛筆だと思う。
物は全て廃れるものである。しかし、基本中の基本は廃れることはない。
もう一度、過去に帰って子供の頃に使っていた色々な物について思い返し使ってみるのも意外と楽しいかも知れないし、新たな発見が出来るかも知れない。
鉛筆は今でも凄いのだ!

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成熟社会の落とし子

最近は、あまりにも突飛で思いも寄らない事件が多い。
秋葉原の無差別殺人は記憶に新しく、あまりにも衝撃的だった。道行く人たちに刃物を向け、切り付ける。考えられない事件である。
この様な事件は、10年くらい前から起こるようになったような気がする。昔は無かった。個人的憎しみとか、金目当ての事件は以前から多かったが、この手の事件は、ごく最近になってからである。命の尊さとか、人に対する思いやりなど微塵も感じられない。
何故この様な事件が起こるのか。色々と私なりに考えたが、なかなか答えは見つからない。事件を起こした人間はどの様な思いで、何故行動に至ったのか。さっぱり理解できない。
しかし、人間は家族や社会の中で学習しながら人間として成熟していくものであるはずだ。その過程で「おかしな方向に進んでしまったから」という予想は出来る。勿論、事件を起こした本人が最も罰を受けなければならない。しかし、その人間を育てたのは、家族であり社会であるはずだ。
キーワードは「成熟社会」にあると考える。格差社会と言われて久しいが、果たしてそうなのか。中国やインドと比べれば、日本は格差社会などとは言えないのではないか。ある程度の経済力を持っていれば、24時間何不自由なく暮らせる社会が日本だ。完璧ではないにしても社会福祉制度だって確立している。
そんな中で、一層進んできたのは「個人主義」という概念である。「俺は俺、あれやこれやと指図されたくない」そんな人間が増えてきたような気がする。
人との交流も熱心にしなくてもそれなりに生活できてしまう社会になってしまったのだろうか。そうは行かないはずである。社会が成熟するのは、国として理想的な状態になるはずである。しかし、それに逆行するように、人との関わりが次第に薄れてしまっているような気がする。
そんな状況の中、社会に溶け込む教育を受けられず、そのチャンスを失い、取り残される人間も存在するはずである。そうなるとどうなるか。自分を必要とされない社会で生きていくことになる。孤独である。もうこうなったら自棄である。「自分か必要とされていないのだから他人だって同じだ」となる。
「成熟社会」は未成熟な大人を育ててしまうのか。
苦労を共にし涙を流し、笑い会える仲間がいて、愛し合える家族が居る。そんな社会が一番の理想であるはずだ。そんな人との交流を得るチャンスは生まれし者全てにある。そのチャンスを与えるのは家族であり社会である。
現代社会は、私も驚くほど、あまりにも早い速度で変化を遂げている。人々は、それに追い付かなければ弾かれてしまうという強迫観念に満ちているようだ。
しかし、それ以上に大切なものがあることを忘れてはならない。物質的な成熟社会ではない。金銭的な成熟社会ではない。「心の成熟社会」である。
日本の成熟社会は精神的、人間的に未成熟な大人を生んでいるようだ。成熟社会の落とし子だ。この解決策は何処にあるのか。
ちょっと考えてみよう。

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ネットショッピングの影響

パソコンの普及率は1995年を境にグングン伸び、今や世帯換算で70%を優に超えている。
それに遅れること5年の2000年からは、インターネットの利用率が格段に上昇。パソコンの普及率を上回る80%である。家にパソコンが無くても職場やネットカフェ等で利用されているからであろう。
では、インターネット利用者のうち、ネットショッピングの利用経験がある者はどれだけ居るかというと、なんと90%近いのである。つまりは、インターネットの利用目的にはネットショッピングが大きく関わっているということである。
これだけ買い物がネット上で行われているということは、街に立ち並ぶ商店の将来はどうなってしまうのだろうか?!
そこで、利用者がネットショッピングでどんなものを購入しているかを調べてみたら以下になっていた(これもネットで調べました)。
①書籍・雑誌
②衣類・アクセサリー
③健康・ダイエット食品
④食品・飲料・酒類
⑤CD・DVD・ビデオ
⑥家電・AV器機・パソコン
⑦旅行(航空券・ホテル)
⑧日用雑貨・家具・インテリア
⑨化粧品・香水・美容
⑩イベントチケット
実は、この順位は私個人の利用頻度を見事に反映した結果となっていたのでありす。
結果を見ると一目瞭然なのだが、上位ランクの店ほど今後の経営が更に圧迫されると言い換えられます。
確かに上位ランクに位置する店は、私の住む商店街でも次々と閉店してしまった事実として明かになっている。書店、CD販売店、アクセサリー販売店がことごとく閉店。これから商店街はどのような変化を遂げるのでしょうか?
しかし、宅配業者やクレジットカード会社などはかなりの恩恵を得たでしょう・・・。
実物を見て触って買い物をする場面がどんどん少なくなってくる。パソコンの画面を見ながら買い物をする機会がどんどん増える。
ネットショッピングを利用する我々消費者として、ものを正確に見る目、情報を分析する目が益々大切になる世の中になるでしょう。
メディアや広告の情報に振り回されてはいけない。常に自分としての判断が出来るだけの勉強はしておかなければ!

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「継承」は未来への投資

「継承」という言葉を辞書で引くと「財産・地位・権利・義務・仕事などを受けつぐこと。」とある。
最近の日本はどうだろうか。必ずしも継承が上手くいっているとは感じられない。
それが可能なのは、元気の良い活気に溢れた国や企業、家族、業種などに限定の言葉のように感じてしまうのは私だけだろうか。
この業種では生活できないから跡継ぎは無理とか、人材不足だから無理、などと言われてしまっては到底「継承」は難しくなってしまう。「文化」「技術」「産業」「教育」等々、様々な分野て「継承」されなければならないことで溢れているはずである。
ところが、今の日本ではそれが上手く行っているのかどうか・・・。甚だ疑わしい。
過疎化した街の伝統や文化、外国産の低価格に悩まされている農業や漁業、中小企業や小さな町工場の世界に誇れる技術、子供に対する教育や育児、料理や礼儀作法。数え上げればきりがない。
「継承」とは文字や文章で伝承できるものではなく。実地で経験を積み上げなければならない。失敗や苦労を経験して初めて”モノ”になるはずだ。これが今、あちらこちらで崩壊している感がある。この状態を世のお偉いさん方はどう考えているのでしょうか・・・。
国でいえば、無駄な道路なんかを造ることに一生懸命になっている。伝統や文化、技術などを支援することに金を注ぎ込むという発想は浮かばないのだろうか・・・。
それは企業だって同じだ。世界に誇れる、資金的にも人材的にも余裕のある企業は別として、中小企業は慢性的な人材不足である。だったら企業の将来を担う人材を育てなければ、将来どうなるのかをもっと考えなければならないはずだ。
社員に給料を払うために精一杯の状況下で、その様な余裕は無い、といわれてしまうと元も子もないのである。目先のことしか考えられないのだろうか。将来的な考えとしては無責任な回答でしかない。
農業や漁業も「継承」は非常に重要である。これこそ、自然相手、生き物相手なので実地で習得すべき事項で満載だ。短期間で習得できるものではない。食糧自給率が低い日本において、これから益々重要になってくるであろうこの産業をどうするのか・・・。スーパーに外国で生産され外国で作られる食料で溢れてしまっては、もはや日本ではなくなってしまうではなか!グローバル化という言葉がもてはやされているが、この様な状況がグローバル化といわれたくない!
これは、政治家やその他お偉いさん方に任せておいては大変なことになってしまいそうだ!自分たちの文化は自分たちできっちりと「継承」していかなければならない。そういう心構えを砕いてしまう法律や規制は即刻排除すべし!目先のことばかり考えていては「継承」は上手くいかないはず。
それとも、そんな余裕のない社会になってしまったのか?
それはそれは寂しい限りですな・・・。
未来を予測できる立派な人は居ないのでしょうか・・・。

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軽油が高いぞ!

新車を買ってから5年と4ヶ月(もう、新車とは言えません・・・)。距離が伸びる生活を送っていたこともあり、安い軽油で走るディーゼル車を選んだ。しかし、最近の原油価格高騰の煽りを受け、勿論ガソリン価格も上昇傾向である。ディーゼル車を選んでおいて、多少は助かったと思っていた・・・。
前回給油したときは、108円/Lだったと記憶している。しかし今週、車を走らせているときにガソリンスタンドの表示価格を見てびっくりした!何と126円/Lになっているではないか!?「これはちょっと軽油の上がりかたが純情ではない!」と思い、ネットで色々と調べてみた。そうすると、意外な事実が判明したのであります!
■レギュラーガソリン:18年3月:131円/L→19年10月:145円/L → △14円/L
■軽        油: 18年3月:108円/L→19年10月:123円/L → △15円/L
なんと、単価の安い軽油の方が高いレギュラーガソリンよりも上昇率が高いのでありました!
これは、ガソリンスタンド間の競争激化が絡んでいるに違いないのである。顧客を留めるためには、消費者数として多い方(勿論レギュラーガソリンの消費量も多いのは当然)のレギュラーガソリンの価格を抑え、顧客数の少ない方の軽油価格を上げて補填しているのではなかろうか?!
かなり前になるが、マスコミの前で石原東京都知事が「毎日、毎日都内ではディーゼル車が沢山走ることにより、こんなに真っ黒な粉塵が排出されている!これはとんでもないことだ!」などとしてペットボトルに入った真っ黒な物体を見せつけて物議を醸したことがある。
それ以来、国内自動車メーカーはディーゼル車に関しての開発意欲が削がれてしまったようである。しかし、ヨーロッパでは日本とは全く逆の発想なようで「ディーゼル車の方が環境に良い」とかいって、走っている車のほとんどがディーゼル車らしいのだ・・・。日本国内では評判が悪いディーゼル車であるが、メルセデスベンツはディーゼルエンジン搭載車を大々的に日本でも発売し宣伝しているのがその証拠である。
本当のところ、ヨーロッパと日本との、この発想の仕方はどう違うのだろうか?本当に環境に優しいのはどっちなのか?軽油の精製の仕方が違うのか?それともエンジンの機構自体や触媒技術が違うのか?これについては自分自身で調べて納得しなければと思っている。
折角安い燃料で走ることのできるディーゼル車である。この様な原油価格高騰の時代を迎えているのだから、国内自動車メーカーも環境に優しい、石原都知事もビックリするようなディーゼル車を開発してほしいものである。

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日本の車離れ

日本では車離れが進んでいるらしい。特に若者達の車離れが激しいようで、メーカーにとっては死活問題だろう。若者が乗らないとなると、年をとっても乗らない可能性があるし、その子供だって乗らない習慣が付くだろう。
何故この様に乗らなくなったのか?その原因は色々あると思う。一般的な考え方だとこうだ。
・交通機関が比較的細部まで行き渡ったため。
・駐車場が高いから。
・ガソリンが高いから。
・維持費がかかるから。
・交通事情によって時間の予定が立たないから。
まあ、この他にも色々あるだろうが、車が大好きな私としては信じがたい事実なのである。
何しろ、幼いときから車が好きだった。いつも家族で車で出掛けるときなどは、弟と助手席にどっちが乗るか激しい争を演じていた。それに、スーパーカーブーム真っ直中世代である。展示会が有れば必ず出掛け、写真をバチバチ。スーパーカーのエンジン音が録音されたレコードも買った。車雑誌を買い込んでは自分のお気に入りの車の写真をスクラップ。その時代の車の名前は全て覚えていたものである。将来はカーレーサーになるんだ!などと真剣に考えていたこともあったっけ。消しゴムまでスーパーカーだった・・・。
そんな時代背景もあり、私の生活スタイル自体が車無しでは考えられないのだ。
・釣りに出掛ける場所には交通機関が無い。
・自由な時間に自由な場所まで自由に走りたい。
・何しろ、車を操るのが大好き!
ていうことで、新車を買ってから5年ちょっとで9万キロ以上を走破している私から車が無くなると生きた心地がしないのである。というか、生活自体が大きく狂ってしまうこと必至である。
最近の若者達が何故車を乗らなくなったのかは、前述したとおりであるが、最大の原因は、概ね都会派化してしまった社会の中で成長してきたからではないのか?と思うのだ。都会で楽しみ、都会で用を済まし、それで満足できる。そんな生活が当たり前となってしまったからではなかろうか?わざわざ遠くまで出掛けて自然の中で遊ぶということが無くなってしまったのか?と思わざるを得ないのである。
私の場合、週末は雑踏から離れ、シーンとした自然の中で一時を過ごすのが気持ちが良く、落ち着くのだ。それが習慣になっている。都会の音から逃れる一時を得るために、車でわざわざ遠くまで行く(釣りがてらですが)。
環境問題を考えればなるべく交通機関を利用した方が良いのでしょうが、冒険好きな私は駄目だな・・・。
世の中の車が全部エコカーになってくれれば威張って言えるのですがね・・・。

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